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2018年8月12日日曜日

上早川の歴史と伝説(その24)「上早川のお宝~劒三社前殿棟札~」 [ History and legend of KAMIHAYAKAWA No.24 ]

 上早川の歴史を語るうえで宮平の剣神社は欠かせません。なかでも、市の有形文化財(書跡)に指定された神社に伝わる棟札は、室町時代におけるこの神社やその建立を担った氏子の様相を今に伝えています。
 この棟札の表には「大領宮司左示門太夫古志公義盛 永享三年辛亥今上皇帝一百三代 少領宮人平左示門古志公長 奉造立矛嶽座京田剣三社権現前殿一天安全四海太平風雨順時

六月二日成就 将軍家義教公 大工しろむら」、裏には「京田村 山組男女百六十六人 里組男女二百九十九人」とあります。
京田村の皆々が天下泰平と安定した天候を願って社殿を新築し、当時の宮司は左衛門で、宮人は平左衛門、施工は大工しろむらであったことが解り、賛同者の人数もあることから、京田村の人口も推定できる貴重な歴史資料といえるでしょう。

永享三(一四三一)年は、室町幕府の将軍の足利氏とそれを支える有力者との間で揉め事が頻発したころで、都は荒廃が進んだと言われています。しかし、現在の集落がほぼ成立し、春耕から秋の収穫までの基本的な技術と作業が確立した頃でもあり、早川右岸に広がった京田村(現在の土塩・猿倉・吹原・坪野・中林・中野・宮平・五十原など)で、農作業に励み、豊作を神社に託した私たちの遠い祖先の願いが窺い知れるようです。(木島)

2016年10月27日木曜日

上早川の歴史と伝説(その18)「焼山の火砕流」 [ History and legend of KAMIHAYAKAWA No.18 ]

上早川の歴史と伝説(その18)
焼山噴火の火砕流
活火山焼山の成立は、火砕流最下層における炭化木の放射性炭素による年代測定によると、前回紹介しました。それでは音坂から上流域の厚い火砕流の堆積は、いつの噴火によって形成されたのでしょうか。フォッサマグナミュージアムに展示される早川火砕流堆積物の一部を剥ぎ取ったジオラマ(写真)を観察すると、堆積した砂礫の大きさなどの違いから少なくとも六層に区分できます。また、各層の間に腐植土の堆積を認めないことから、間髪入れずに少なくとも五回の火砕流が流れたことを示しています。
火砕流堆積物より検出された炭化材の放射性炭素による年代測定では、八九〇年前、九五〇年前、一一〇〇年前を示し、平均すると九八〇年前となることから、平安時代末期の一〇〇〇年ほど前に、焼山の大噴火があったことは確かなようです。さらに、上早川小学校の敷地造成で検出された炭化材は、鎌倉時代末期の一二三五年前と測定されています。前者三点の炭化材と後者の層位関係は不明ながら、二五〇年ごとの大噴火の可能性を示していることになります。
平安時代末期以降、戦乱が頻発する不安定な社会が続きました。この頃は地球の寒冷化に加え、地震、津波、噴火を繰り返す活動期でもあったようです。不安定な気候は作物の不作を招き、作物だけでなく領地の争奪も各地で起きたのです。こうした社会の変動期にあって、火砕流で土地を奪われた私達のご先祖達は、どのように対処したのでしょうか。

木島 勉
■前→上早川の歴史と伝説(その1)「焼山噴火の年代
※本記事、上早川の歴史と伝統」は上早川広報「ほこんたけ通信」の連載記事として掲載される内容を本ブログにも投稿しています。お問合せは上早川地域振興会事務局(上早川地区公民館内)025-559-2002までどうぞ。

2016年9月14日水曜日

上早川の歴史と伝説(その17)「焼山噴火の年代」 [ History and legend of KAMIHAYAKAWA No.17 ]

上早川の歴史と伝説(その17)
焼山噴火の年代
活火山焼山は、約3000年ないし3250年前から大規模な噴火活動を始めたとされています。ところで、これらの年代は如何なる資料を根拠としているのでしょうか。
この根拠となったのは、火砕流台地の最下層で検出された焦げた立木で、前川の浸食で露出した埋れ木の年代測定によります。この年代測定は、放射性炭素測定法と呼ばれ、放射性同位体である炭素十四を含む生物は生きている間は減らないが、死後は炭素が補給されないことから存在比率が年々減じる性質と炭素十四の半減期が5730年であることを利用した測定法です。炭素を含む物質であれば測定可能であることから、一般的に普及している測定法で、今日ではその改良型も考案されています。また、この他にも前川河床で観察できたブナを検体とした年代測定でも類似の値が出されていることから、3000ないし3250年前といった年代は確かなようです。
この年代は、繁栄を極めた美山の長者ケ原集落も廃村となり、新たな集落が滝川原の細池や青海の寺地などに営まれようとしていた頃です。長者ケ原遺跡と同時代の土器片が角間などから採集されていることから、上早川にも縄文集落は営まれていたようです。当地の縄文人たちはこの大惨事をどのように眺め、どう対処したのでしょうか。
木島 勉
■前→上早川の歴史と伝説(その1)「延喜古道・山道説
※本記事、上早川の歴史と伝統」は上早川広報「ほこんたけ通信」の連載記事として掲載される内容を本ブログにも投稿しています。お問合せは上早川地域振興会事務局(上早川地区公民館内)025-559-2002までどうぞ。

2016年8月18日木曜日

上早川の歴史と伝説(その16)「延喜古道・山道説」 [ History and legend of KAMIHAYAKAWA No.16 ]


上早川の歴史と伝説(その16)
延喜古道・山道説
「延喜古道」と呼ばれる道をご存じでしょうか。平安時代までに整備された主要街道のことで、『延喜式』には当地の駅家として「滄海」と「鶉石」が記されています。「滄海」は青海、「鶉石」は能生谷の鶉石付近と推定され、糸魚川市史の編纂・執筆者である青木重孝氏は古刹とされる寺社を経由して上早川を通る山道(青海・滄海駅~今井・西川原~大野~蓮台寺・水保~真光寺~日光寺~宮平~吹原~こえど越~島道~大沢・鶉石駅)を提唱しています。また、早川谷を描いた絵図などには西海~角間~島道を結ぶ道も描かれています。
確かに、こうした道は存在したのでしょうが、各地で発掘されている古代の道路跡は、幅六~十二メートルで側溝も整い、地方の税を都に最短で運ぶため、集落間を直線で結んでいたようです。道は人と物資の往来のためにあり、寺社への往来であれば麓の集落と結ぶだけで十分でしょう。こうしたことから、「滄海駅」と「鶉石駅」間のメインルートは、古代の集落遺跡が数多く立地する海岸部を通っていたと考えるべきでしょう。
それでは、山道はどのような役割があったのでしょうか。現代の私達は、山を障壁として捉えていますが、これまでも紹介したように私達の祖先は、様々な恵みを求めて山と関わり、隣の村との最短ルートとして山越えをしていたようで、その行動半径は想像以上に広範であったようです。能生谷や西海谷はもちろん妙高や信濃との往来も視野に入れた早川谷の歴史を再検証する必要があるようです。

木島 勉
◆次→上早川の歴史と伝説(その1)「焼山噴火の年代
■前→上早川の歴史と伝説(その15)「経田村?」
※本記事、上早川の歴史と伝統」は上早川広報「ほこんたけ通信」の連載記事として掲載される内容を本ブログにも投稿しています。お問合せは上早川地域振興会事務局(上早川地区公民館内)025-559-2002までどうぞ。

2016年7月19日火曜日

上早川の歴史と伝説(その15)「経田村?」 [ History and legend of KAMIHAYAKAWA No.15 ]

上早川の歴史と伝説(その15)
経田村?
経田(きょうでん)村をご存じでしょうか。室町時代から戦国期の諸文献に確認できる村名で、天正十五(一五八二)年の「経田永付帳」(伴家文書)では土倉・岩倉・吹原・猿倉・土塩・坪野・五十原・松木分・下村となっている。この松木分と下村は後に、中野・中林・宮平・越となることから、早川右岸の村々はかつて「経田村」と呼ばれていたようである。

宮平・剣神社
宮平・剣神社の永享三(一四三一)年銘の「剣三社前殿棟札」(市・有形文化財)には「矛岳座 京田剣三社権現」とあり、永正三(一五〇六)年の伴家文書には「京てん村平之丞」といった住人を確認でき、天正十四(一五八六)年の上杉氏黒印状には「教典村」、同十八(一五九〇)年の飯田長家・河隅忠清署請取状には「西浜之内きょうてん村」などと書かれている。
少々怪しいが、大同三(八〇八)年編纂とされる最古の医学書『大同類聚方』には「佐美豆薬。頸城郡早水郷京田村主 □□□少領 無位 大神臣等の家伝。元は大己貴神授 云々。 延暦□□年 領君 朝原親王御悩の時、宮符言上。 かつら・とりかぶと・まむし・わけらのね。四時水煎、日々与ふ。」とあり、「京田」なる地名が平安時代まで遡る可能性を示す。一方、「佐美豆(さみず)」、「早水(さみず)」とあるように、「早川(はやかわ)」は「早水(さみず)」と呼ばれたが、「水」を粗末に書くと「川」となることから「早川」になったとも読み取れよう。
木島 勉
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2016年6月15日水曜日

上早川の歴史と伝説(その14)「屋敷の平と佐多神社」 [ History and legend of KAMIHAYAKAWA No.14 ]

上早川の歴史と伝説(その14)
屋敷の平と佐多神社
早川を挟み中川原新田の対岸に北山集落の旧地とされる「屋敷の平」があり、山裾には建速須佐之男命(すさのうのみこと)を祀る「佐多神社」がある。境内の西端には古木と巨岩があり、付近には天保十三(一八四二)年奉納の石祠も祀られています。巨岩周辺には礫が点在することから、古代の祭祀遺構ではないかと騒がれたこともありました。残念ながらそのような遺構ではありませんが、厚い崇敬を感じるスポットで、伐採を戒める伝承もあったことから栃と杉の古木からなる鬱蒼とした社叢は、市の指定文化財にもなっています。
さて、この「佐多神社」、その由緒は「八口山に住む賊を大穴持神が征伐したことによる」などとされていますが、平安時代に編纂された『延喜式』巻十・神祇の頸城郡十三座である「佐多神社」の推定地のひとつでもあります。いわゆる「式内社」とはこの『延喜式』に記載された神社のことで、平安時代から祀られている古式ゆかしい神社のことです。式内社「佐多神社」の一般的な推定地は宮平の「剣神社」あるいは直江津の「八坂神社」ではないかとされますが、この北山の「佐多神社」、社殿は明治期の建立と新しいが、社叢の雰囲気だけは格別です。
木島 勉
次→上早川の歴史と伝説(その15)「経田村?」
■前→上早川の歴史と伝説(その13)「焼山噴火の痕跡~妙高市馬場遺跡~」
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佐多神社については、詳しい紹介サイトがあります。
ご興味ある方は以下もご覧ください。
「佐多神社」 ※サイト名「玄松子(GenSyouShi)の記録」

2016年5月14日土曜日

上早川の歴史と伝説(その13)「焼山噴火の痕跡~妙高市馬場遺跡~」 [ History and legend of KAMIHAYAKAWA No.13 ]

上早川の歴史と伝説(その13)
焼山噴火の痕跡~妙高市馬場遺跡~
前回は、安永二(一七七三)年の焼山噴火に伴ったと思われる川欠絵図の存在を紹介しました。焼山の山頂は糸魚川市と妙高市の境界でもあることから、その噴火は妙高側でも検証できるはずです。そこで、一つの事例を紹介しておきます。
矢代川流域に所在する妙高市馬場遺跡の発掘調査では、中世期の水田跡で焼山より噴出した火山灰が確認されています。畔に囲まれた小規模な水田跡で人と牛か馬の足跡が直線的に点在する様子を私も実見しました。足跡の窪みに堆積していたのは灰色の火山灰で、田んぼの黒色土との区別は容易でした。
足跡の様子から、代掻き後の田植えの最中に火山灰が堆積したようです。もちろん火山灰が降り積もったわけではなく、火山灰が泥流となって流れ込んだようです。つまり、中世の大規模噴火を古記録などに記載される正平十六(一三六一)年と想定すると、その年の五月下旬から六月頃に火山灰を含む泥流が水田を埋め尽くしたことになります。なお、この足跡の位置や窪みの断面などから、この水田の田植えは後ろ向きに行われていたことも解りました。
いずれにしても、六五〇年ほど前の今頃、焼山は今以上に噴煙を上げていたことでしょう。私たちの足もとには焼山の噴火を示す痕跡が随所に埋もれているようです。将来の噴火に備え、そうした痕跡を知っておくことも大切なことでしょう。

※直近の新潟焼山の様子を紹介しておきます。

木島 勉
◆次→上早川の歴史と伝説(その1「屋敷の平と佐多神社」
■前→上早川の歴史と伝説(その12)「安永二年の焼山大噴火」
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2016年4月12日火曜日

上早川の歴史と伝説(その12)「安永二年の焼山大噴火」 [ History and legend of KAMIHAYAKAWA No.12 ]

上早川の歴史と伝説(その12)
安永二年の焼山大噴火
最近、噴煙を増している焼山であるが、江戸時代には安永二(一七七三)年と嘉永五(一八五三)年にも噴火があったとされる。なかでも、安永の噴火は凄まじく、地元の伴家や堀口家に伝わる古記録で確認できるそうである。
それによると、安永二年の噴火は二月二十二日の朝から始まったようで、「東中段より焼け出し、東西南北、焼け回り、夜毎に明るく火炎焼けし、たちまち電雷して、岩はもちろん、大石を焼き、砂流れる音、キモに響き、まことに奈落の底に入り、心も消え果つるばかりなり。」とあり、大雨になると土石流が川を堰き止め、それが決壊して下流に大きさ被害が生じたとある。そして、山頂に阿弥陀・観音・勢至の三尊を祀ったという。
実際にどの程度の被害が生じたのであろうか。早川の流れは、火打山川と焼山川が合流して土塩付近まで直線的に流れ下って坪野、中林、宮平、越で西に曲がっている。大きな被害を想定するとこの辺ではなかろうか。市歴史民俗資料館の伴家文書「大越、谷内越、西越、北越各村の道川除地田畑川欠の絵図」(安永二年)には宮平から旧越の早川右岸側の大規模な水害が記録されている。前述の焼山の噴火による早川の決壊による被害の可能性もある。
それにしても、現在とほぼ同じような集落が成立していた二五〇年前、焼山の噴火や災害に伴う記録はこの程度なのであろうか。まだまだ確認する必要があろう。
砂防堰堤や河川堤防が整い、江戸時代のようなことはないであろうが、噴火の規模によってはこれらの施設がどの程度機能するかはわからない。毎朝、山を仰いではご機嫌を祈るばかりである。
木島 勉
→上早川の歴史と伝説(その13)「焼山噴火の痕跡~妙高市馬場遺跡~」 
■前→上早川の歴史と伝説(その11)「田沼の支配」
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2016年3月11日金曜日

上早川の歴史と伝説(その11)「田沼の支配」 [ History and legend of KAMIHAYAKAWA No.11 ]

上早川の歴史と伝説(その11)
田沼の支配
大藩の高田藩と前田藩に挟まれた当地は、糸魚川藩領、高田藩領、幕府領、伊勢神領などが混在する複雑な支配が続きました。以前にも紹介したように早川谷も例外ではなく、江戸時代後期には田沼領も混在していました。
田沼家は御三家・紀州徳川家に六百石で仕える家柄でしたが、吉宗(よしむね)の将軍抜擢により旗本となり、意(おき)次(つぐ)の時には遠江相良藩(静岡県牧之原市)五万七千石を領する大名にまで登りつめました。意次は老中となって殖産興業を推進して幕府財政を立て直したことで知られます。父の若年寄・意(おき)知(とも)が暗殺され、祖父の意次もその辣腕が仇となって失脚、後継の意(おき)明(あき)は安永元(一七七二)年に、奥羽下村藩(福島県福島市)二万七千石に移封され、天明七(一七八七)年から文政六(一八二三)年までの三十六年間、早川の下出に陣屋を構えて早川・西海・根知・川西谷の三十三ケ村を支配していました。
早川谷では、上出、下出、谷根、西塚、東塚、五十原、角間、北山、砂場、大平、中川原新田、土倉、吹原、東土塩、西越、北越が田沼領でした。その面影は田沼陣屋の門を転用した砂場・善正寺の山門(市・指定文化財)などにみられましたが、この山門も平成十六年の突風で全壊、今では日光寺・観音堂の手洗鉢、月不見の池の鳥居や太鼓橋などに名残をとどめるにすぎません。
※参考:『西頸城郡誌 』昭和五年 西頸城郡教育会
木島 勉
◆次→上早川の歴史と伝説(その12)「安永二年の焼山大噴火」 
■前→上早川の歴史と伝説(その10)「火山灰台地の開発」
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2016年2月12日金曜日

上早川の歴史と伝説(その10)「火山灰台地の開発」 [ History and legend of KAMIHAYAKAWA ]

上早川の歴史と伝説(その10)
火山灰台地の開発
江戸時代になると人口も増え、農林業も発展したことから、各地で境界争いが頻発したことは、これまでにも紹介しました。もちろん、米本位制で米はまさにお金と等しく扱われていた時代ですから、水田を新たに開墾しようとする動きも活発でした。上早川の「中川原新田」をはじめ、「○○新田」と呼ばれる集落の大半は江戸時代になって開墾されたのです。
さて、焼山の噴火に伴う火砕流と土石流から成る上早川の火山灰台地の開発には紆余曲折があったようです。この一帯は周辺集落の放牧地として利用されていた草原のようで、これに目を付けた堀切村の木島作左衛門兄弟が開発に着手しますが成功しませんでした。さらに、万治四(一六六一)年には高田の刀屋勘兵衛が高田藩に開発を出願しています。もちろん、放牧に利用していた周辺の村はこれに反対しましたが、高田藩郡奉行の指示もあり、地元の大肝入・斉藤仁左衛門(越村)を新田大将として開発が始まりました。
しかし、用水の取り入れ口は難工事で何度も挫折し、真偽は別としても掘削工に慣れた橋立金山の工夫二五○○人を動員したが頓挫したとの記録もあります。そんな工事も早川谷のもう一人の大肝入である関沢清左衛門の支配となる堀切村の百姓を入植させて、延宝元(一六七三)年頃に二八町歩の新田開発がほぼ完成したようです。その後、貞享二(一六八五)年に天和検地帳が下付されて中川原新田が独立しています。
※参考:『糸魚川市史 2巻』440~449頁
木島 勉
◆次→上早川の歴史と伝説(その11)「田沼の支配」 
■前→上早川の歴史と伝説(その9)「草の争い」
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2016年1月13日水曜日

上早川の歴史と伝説(その9)「草の争い」

上早川の歴史と伝説(その9)
草の争い
前回は江戸時代前期における川東の猿倉・吹原・坪野・土塩と川西の砂場・北山・角間との山境の争いを紹介しましたが、このような争いは上早川だけではなく各地で頻発したようです。その背景には各集落の支配の複雑さ、人口の急激な増加、農林業をはじめとした諸産業の発展などがあったようです。もちろん、山境より田畑の境界の方がより深刻であったに違いありません。主食である米は年貢でもあり、米本位の当時は、米はまさにお金と等しく扱われていました。ですから、その生産量の増大は、最重要課題でもありました。
現在の稲作は様々な肥料や土壌改良剤によってその収穫量は飛躍的に高まりましたが、当時は草が唯一の肥料でした。田んぼの近くで青草を刈り、それを田にすき込んで肥しにしたわけです。そのため、この大事な草刈場をめぐる騒動も各地で起こっていたようです。
万治三(一六六〇)年には土塩村の前川原で土塩と宮平の百姓が争いを起し、大肝煎の関沢茂右衛門と斉藤仁左衛門が裁定に入っています。それによると、新たに田畑を開墾すると、再び草刈場でもめることから、これを禁じています。さらに、二十四年後の天和三(一六八三)には再び裁定がなされ、早いもの勝ちではなく、二人で一緒に刈り、それでも不足であれば村の共有地を刈らせるとしています。
 今では草を肥料として扱うようなことはなく、むしろその処理・草刈りに困っていますが、当時のような貴重な草の所有権の名残は、畔草の刈り方などに残っているようです。
木島 勉
◆次→上早川の歴史と伝説(その10)「火山灰台地の開発」 
■前→上早川の歴史と伝説(その8)「境界争い」
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2015年12月8日火曜日

上早川の歴史と伝説(その8)「境界争い」

上早川の歴史と伝説(その8)
境界争い
泰平の江戸時代になると、庶民の生活も落ち着き、農林業をはじめとした生業も安定、発展しました。前号で紹介したように幕府領と高田藩領とが混在する早川谷においても、現在の集落・大字はほぼ成立し、農林業を主体とした生産活動も大いに盛んになったようです。
こうした安定と発展は、人口や戸数の増加をもたらし、より広い耕地が必要となり、木材や薪、炭などの需要も大いに増えたことと容易に想定できます。そうなると、各村の境界をめぐって様々な争いが勃発するようになり、『糸魚川市史3巻』にも「早川谷の山論」として境界裁定例が紹介されています。
 承応二(一六五三)年に川東の猿倉・吹原・坪野・土塩が川西の吉尾平や余所平の山林を伐採したことに端を発し、これに川西の砂場・北山・角間が異議を唱え、双方が高田藩の奉行へ提訴したそうです。奉行は早川の大肝煎の小竹氏(田屋)と斉藤氏(越)に、熊野権現のお札(牛王宝印)の裏に案文を書き、名前と血判を押させ、それを焼いて境界の土に混ぜ、関係者にそれを飲ませて腹痛をおこした方が負け、とした裁定案を命じたそうです。関係者十二人が日光寺観音堂に籠って忠実に行った結果、だれも腹痛をおこさなかったことから、双方の主張の中間に境界が設けられたそうです。
 全く不思議な裁定とも思えますが、西海の御前山でも同じような裁定が行われ(「七人待掛軸文書」・市指定文化財)ていることから、当時としては一般的であったようです。まだまだ中世の名残が感じられます。
木島 勉

◆次→上早川の歴史と伝説(その9)「草の争い」
■前→上早川の歴史と伝説(その7)「移り変わる西浜・上早川の複雑な支配」
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2015年11月13日金曜日

上早川の歴史と伝説(その7)「移り変わる西浜・上早川の複雑な支配」

上早川の歴史と伝説(その
移り変わる西浜・上早川の複雑な支配
秀吉の世になると、越後・上杉家は会津に移封となり、越後は秀吉の側近、堀氏の支配となりました。やがて、徳川の世になると、越後の支配は家康の六男忠輝、酒井家、松平家などと移り、寛保元(一七四一)年に譜代の榊原家の領地となって落ち着きました。
西浜(現・糸魚川地方)の支配も同様で、延宝三(一六七五)年に越前松平家の系譜である松平直堅の支配(一万石)となると落ち着き、幕末まで続きました。しかし、外様の前田家が領する加賀・越中に接する西浜は、前田家への警戒もあって、糸魚川藩領、高田藩領、幕府領、田沼領、伊勢神領、一の宮領が混在する複雑な支配体制が続きました。
上早川も、東越、宮平、中野、坪野、中林、西土塩、笹倉、新田は高田藩領、西越、北越、東土塩、猿倉、吹原、角間、北山、砂場、中川原、新田、土倉、大平は幕府領(天明七年から文政六年までは田沼領)と複雑でした。
実際の差配は、越村の伴(後に斉藤)氏が、大肝煎(大庄屋)として代々上早川を仕切っていたようです。この伴氏は戦国期に近江(現・滋賀県)から越後に下り、上早川に落ち着き、前回紹介した山本寺氏と姻戚関係を結び仕えました。山本寺氏亡き後は、上早川の開発によって勢力を拡大させたようで、戦国末から江戸、明治に至る差配は、糸魚川市に寄贈された一六二三点もの古文書類からもうかがえます。
木島 勉
◆次→上早川の歴史と伝説(その8)「境界争い」
■前→上早川の歴史と伝説(その6)「不動山城 - 城主・孝長の最期- 」
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2015年10月14日水曜日

上早川の歴史と伝説(その6)「不動山城 - 城主・孝長の最期- 」

上早川の歴史と伝説(その
不動山城 城主・孝長の最期
前号で紹介した二代目の不動山城主、山本寺定長(定景)の弟である孝長は謙信の近侍であったようで、永禄四(一五六一)年九月の川中島合戦では血気盛んな若武者ぶりを発揮したようです。また、関東・相模の北条氏政に謁見して謙信の口上を述べるような大役もこなしています。
謙信の後継者争いとして知られる天正六(一五七八)年の「御館の乱」においては、山本寺氏は兄弟が分かれて戦うことになります。兄の定長は上杉景虎(養子・北条氏政の子)側、弟の孝長は景勝(養子・謙信の妹の子)側に属したようです。勝敗に関わらず、山本寺家の継承が可能になり、戦国の世では類似の事例を多く確認できます。御館の乱は、景虎の鮫ケ尾城での自害によって、景勝側の勝利となり、孝長は不動山城主に任ぜられました。兄・定景の遺領を賜ることになり、山本寺家は安泰となったのです。
織田信長による越前、越中への進行が始まると、上杉勢も越中の守りに勢力を注ぎます。山本寺孝長をはじめとした十三人の武将が魚津城の守りに加わり、万全な体制をとりました。しかし、手薄となった春日山城を信濃方面から攻める動きもあり、越中への加勢が困難となったことから、前線の魚津城は、孝長らに託されることになりました。信長軍の勢いは凄まじく、天正十(一五八二)年六月三日、孝長をはじめ十三人は切腹、魚津城は落城となりました。この前日の二日、信長は本能寺で明智光秀に討たれ、その知らせは七日頃に越中まで伝えられたことから、もう数日持ちこたえていれば、形勢は逆転したことでしょう。何とも不運な不動山城主、山本寺孝長の最期でした。
記:音坂 木島 勉
◆次→上早川の歴史と伝説(その7)「移り変わる西浜・上早川の複雑な支配」
■前→上早川の歴史と伝説(その5)「不動山城 - 城主 - 」
※本記事、上早川の歴史と伝統」は上早川広報「ほこんたけ通信」の連載記事として掲載される内容を本ブログにも投稿しています。お問合せは上早川地域振興会事務局(上早川地区公民館内)025-559-2002までどうぞ。

2015年9月11日金曜日

上早川の歴史と伝説(その5)「不動山城 - 城主 - 」

上早川の歴史と伝説(その
不動山城 城 主 -
前号で紹介した不動山城の主は誰であったのでしょうか。山城は単なる城塞だけではなく、集落を誇示するシンボルでもあったことから、独立峰の不動山は絶好の頂であり、古くから早川谷の守り、その勢力を誇示する象徴として古くから利用されていたことでしょう。城塞としての機能が整い、下剋上の時代になると、城主などの名前が登場するようになります。
作者・年代とも不詳の合戦記『不動山城由来記』によれば、越後の守護上杉房能が守護代の長尾為景に討たれた永正三(一五〇六)年に、上杉三本寺直長(景貞)が上杉房能の養子、定実を擁して能登・越中勢と戦った時には既に要害となっていたようです。
この時、早川勢の先陣は堀田太郎頼秀・渡辺孫七晴政・斉藤八十郎成国による三〇〇余騎、二陣は樋口太平治一長、後陣は高橋十郎政平、早川端には森田八蔵康国・山田重治光国、白髭社には平里十郎俊長・園田九郎国茂らがそれぞれ二〇〇~三〇〇騎を配したとされ、本丸には城主をはじめ八〇〇余人がたてこもったとされます。多分に誇張して記されているとは思いますが、信じ難い騎馬の数です。
結局、不動山勢は負け、三本寺景貞は越中に敗走したそうです。その後、先の由来記によれば景貞の子、二代目定景は六歳ながら越で養育され、やがて長尾為景に見いだされ、為景の妹と結婚して再び不動山城主に返り咲いたとのことです。いずれにしても不動山城の主、三本寺氏は越後の守護上杉氏の一門であり、後に上杉を名乗る長尾氏と姻戚関係にあったことから、上杉謙信の時代にあっても、厚く遇されたようです。
記:木島 勉
◆次→上早川の歴史と伝説(その6)「不動山城 - 城主・孝長の最期- 」
■前→上早川の歴史と伝説(その4)「不動山城 - その構え - 」
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2015年8月18日火曜日

上早川の歴史と伝説(その4)「不動山城 - その構え - 」

上早川の歴史と伝説(その
不動山城 - その構え -
早川谷の中ほどに聳える不動山城は、中世戦国期の山城跡で、谷の全域をその勢力下に治めていました。この不動山城をしばらく探ってみます。
東海集落と越集落の間に聳える独立峰(標高四四七.五m)に築かれた不動山城は、山頂の本丸を中心に二の丸、三の丸と広い平坦面を造成し、井戸も伴います。四方に延びる尾根は幾重にも掘切りを入れて防御を強化し、典型的な山城の形態を残しています。本丸からは、早川谷はもちろん、遠く親不知の勝山城までを見渡せ、西海谷や根知谷の山城も遠望できる絶好地にあります。早川の入口付近が死角になりますが、立壁の尾根に築かれた金山城がこれを見事にカバーしています。
麓の要害集落には「御殿跡」、「ノロシ場」、「馬のり場」などの伝承地も残り、越集落付近は、地すべりによって当時の面影はありませんが、「耕文寺跡」(現在は西海・坂井)の伝承地もあります。また、城主の山本寺氏に仕え、江戸時代には早川谷の大肝煎であった伴家もその付近にあったそうで、正慶二年(一三三三)の板碑を所有しています。恐らく、越から東海集落の裏手(草山)一帯がこの城を支えた家臣団の居住や経済活動の場である「根小屋」があったのではないでしょうか。
記:木島 勉
◆次→上早川の歴史と伝説(その5)「不動山城 - 城主 - 」
■前→上早川の歴史と伝説(その3)「土塩(つちしお・つっちょ)の由来」
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2015年7月8日水曜日

上早川の歴史と伝説(その3)「土塩(つちしお・つっちょ)の由来」

 上早川の歴史と伝説(その
土塩(つちしお・つっちょ)の由来
前号と同じ『西頸城郡の伝説』に「土塩」の由来が採録されています。
「…土塩は、昔海がこの所まで入り込んでいた頃、塩を採った所である。…」
こうした、入江伝説はいくつか確認できますが、早川谷が海であったのは人類史以前であることから、この伝説には無理があります。
もちろん「塩」とくれば「海」であり、それに由来した地名は多くあります。しかし、以外にも「海無し県」の長野県、栃木県、山梨県、岐阜県などに「塩」の付く地名を多く確認できるのです。
「塩」には「もろい」、「苦い」といった意味もあり、必ずしも「海」を関連させる必要は無いようです。地名の研究では「塩」の付く地名は「塩類泉」、「たわんだ地形」、「楔形の谷の奥」、「川の曲流部」などに由来するとした学説もあり、「土塩」もこのような由来によると考えた方が良さそうです。
「土塩」は埼玉県滑川町、群馬県安中市にもあり、いずれも海から遠く離れ、滑川町土塩は荒川支流で平地と山間部の接点、安中市土塩は烏川支流の谷間に少し開けた平地で、私たちの土塩と類似した景観のようです。しかも、フォッサマグナ帯にあり、数千万年前は海であったことから、塩類泉などが湧いても不思議ではないでしょう。
自分の住んでいる地名の由来を調べるのもなかなか面白そうです。
記:木島 勉
◆次→上早川の歴史と伝説(その4)「不動山城 - その構え - 」
■前→上早川の歴史と伝説(その2)「八龍淵の主」
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