2016年2月12日金曜日

上早川の歴史と伝説(その10)「火山灰台地の開発」 [ History and legend of KAMIHAYAKAWA ]

上早川の歴史と伝説(その10)
火山灰台地の開発
江戸時代になると人口も増え、農林業も発展したことから、各地で境界争いが頻発したことは、これまでにも紹介しました。もちろん、米本位制で米はまさにお金と等しく扱われていた時代ですから、水田を新たに開墾しようとする動きも活発でした。上早川の「中川原新田」をはじめ、「○○新田」と呼ばれる集落の大半は江戸時代になって開墾されたのです。
さて、焼山の噴火に伴う火砕流と土石流から成る上早川の火山灰台地の開発には紆余曲折があったようです。この一帯は周辺集落の放牧地として利用されていた草原のようで、これに目を付けた堀切村の木島作左衛門兄弟が開発に着手しますが成功しませんでした。さらに、万治四(一六六一)年には高田の刀屋勘兵衛が高田藩に開発を出願しています。もちろん、放牧に利用していた周辺の村はこれに反対しましたが、高田藩郡奉行の指示もあり、地元の大肝入・斉藤仁左衛門(越村)を新田大将として開発が始まりました。
しかし、用水の取り入れ口は難工事で何度も挫折し、真偽は別としても掘削工に慣れた橋立金山の工夫二五○○人を動員したが頓挫したとの記録もあります。そんな工事も早川谷のもう一人の大肝入である関沢清左衛門の支配となる堀切村の百姓を入植させて、延宝元(一六七三)年頃に二八町歩の新田開発がほぼ完成したようです。その後、貞享二(一六八五)年に天和検地帳が下付されて中川原新田が独立しています。
※参考:『糸魚川市史 2巻』440~449頁
木島 勉
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■前→上早川の歴史と伝説(その9)「草の争い」
※本記事、上早川の歴史と伝統」は上早川広報「ほこんたけ通信」の連載記事として掲載される内容を本ブログにも投稿しています。お問合せは上早川地域振興会事務局(上早川地区公民館内)025-559-2002までどうぞ。

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