上早川の歴史と伝説(その16)
延喜古道・山道説
「延喜古道」と呼ばれる道をご存じでしょうか。平安時代までに整備された主要街道のことで、『延喜式』には当地の駅家として「滄海」と「鶉石」が記されています。「滄海」は青海、「鶉石」は能生谷の鶉石付近と推定され、糸魚川市史の編纂・執筆者である青木重孝氏は古刹とされる寺社を経由して上早川を通る山道(青海・滄海駅~今井・西川原~大野~蓮台寺・水保~真光寺~日光寺~宮平~吹原~こえど越~島道~大沢・鶉石駅)を提唱しています。また、早川谷を描いた絵図などには西海~角間~島道を結ぶ道も描かれています。確かに、こうした道は存在したのでしょうが、各地で発掘されている古代の道路跡は、幅六~十二メートルで側溝も整い、地方の税を都に最短で運ぶため、集落間を直線で結んでいたようです。道は人と物資の往来のためにあり、寺社への往来であれば麓の集落と結ぶだけで十分でしょう。こうしたことから、「滄海駅」と「鶉石駅」間のメインルートは、古代の集落遺跡が数多く立地する海岸部を通っていたと考えるべきでしょう。
それでは、山道はどのような役割があったのでしょうか。現代の私達は、山を障壁として捉えていますが、これまでも紹介したように私達の祖先は、様々な恵みを求めて山と関わり、隣の村との最短ルートとして山越えをしていたようで、その行動半径は想像以上に広範であったようです。能生谷や西海谷はもちろん妙高や信濃との往来も視野に入れた早川谷の歴史を再検証する必要があるようです。
木島 勉
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※本記事、上早川の歴史と伝統」は上早川広報「ほこんたけ通信」の連載記事として掲載される内容を本ブログにも投稿しています。お問合せは上早川地域振興会事務局(上早川地区公民館内)025-559-2002までどうぞ。
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