不動山城 - 城 主 -
前号で紹介した不動山城の主は誰であったのでしょうか。山城は単なる城塞だけではなく、集落を誇示するシンボルでもあったことから、独立峰の不動山は絶好の頂であり、古くから早川谷の守り、その勢力を誇示する象徴として古くから利用されていたことでしょう。城塞としての機能が整い、下剋上の時代になると、城主などの名前が登場するようになります。作者・年代とも不詳の合戦記『不動山城由来記』によれば、越後の守護上杉房能が守護代の長尾為景に討たれた永正三(一五〇六)年に、上杉三本寺直長(景貞)が上杉房能の養子、定実を擁して能登・越中勢と戦った時には既に要害となっていたようです。
この時、早川勢の先陣は堀田太郎頼秀・渡辺孫七晴政・斉藤八十郎成国による三〇〇余騎、二陣は樋口太平治一長、後陣は高橋十郎政平、早川端には森田八蔵康国・山田重治光国、白髭社には平里十郎俊長・園田九郎国茂らがそれぞれ二〇〇~三〇〇騎を配したとされ、本丸には城主をはじめ八〇〇余人がたてこもったとされます。多分に誇張して記されているとは思いますが、信じ難い騎馬の数です。
結局、不動山勢は負け、三本寺景貞は越中に敗走したそうです。その後、先の由来記によれば景貞の子、二代目定景は六歳ながら越で養育され、やがて長尾為景に見いだされ、為景の妹と結婚して再び不動山城主に返り咲いたとのことです。いずれにしても不動山城の主、三本寺氏は越後の守護上杉氏の一門であり、後に上杉を名乗る長尾氏と姻戚関係にあったことから、上杉謙信の時代にあっても、厚く遇されたようです。
記:木島 勉
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※本記事、上早川の歴史と伝統」は上早川広報「ほこんたけ通信」の連載記事として掲載される内容を本ブログにも投稿しています。お問合せは上早川地域振興会事務局(上早川地区公民館内)025-559-2002までどうぞ。
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