上早川の歴史と伝説(その6)
不動山城 ― 城主・孝長の最期 ―謙信の後継者争いとして知られる天正六(一五七八)年の「御館の乱」においては、山本寺氏は兄弟が分かれて戦うことになります。兄の定長は上杉景虎(養子・北条氏政の子)側、弟の孝長は景勝(養子・謙信の妹の子)側に属したようです。勝敗に関わらず、山本寺家の継承が可能になり、戦国の世では類似の事例を多く確認できます。御館の乱は、景虎の鮫ケ尾城での自害によって、景勝側の勝利となり、孝長は不動山城主に任ぜられました。兄・定景の遺領を賜ることになり、山本寺家は安泰となったのです。
織田信長による越前、越中への進行が始まると、上杉勢も越中の守りに勢力を注ぎます。山本寺孝長をはじめとした十三人の武将が魚津城の守りに加わり、万全な体制をとりました。しかし、手薄となった春日山城を信濃方面から攻める動きもあり、越中への加勢が困難となったことから、前線の魚津城は、孝長らに託されることになりました。信長軍の勢いは凄まじく、天正十(一五八二)年六月三日、孝長をはじめ十三人は切腹、魚津城は落城となりました。この前日の二日、信長は本能寺で明智光秀に討たれ、その知らせは七日頃に越中まで伝えられたことから、もう数日持ちこたえていれば、形勢は逆転したことでしょう。何とも不運な不動山城主、山本寺孝長の最期でした。
記:音坂 木島 勉。
◆次→上早川の歴史と伝説(その7)「移り変わる西浜・上早川の複雑な支配」
■前→上早川の歴史と伝説(その5)「不動山城 - 城主 - 」
※本記事、上早川の歴史と伝統」は上早川広報「ほこんたけ通信」の連載記事として掲載される内容を本ブログにも投稿しています。お問合せは上早川地域振興会事務局(上早川地区公民館内)025-559-2002までどうぞ。
■前→上早川の歴史と伝説(その5)「不動山城 - 城主 - 」
※本記事、上早川の歴史と伝統」は上早川広報「ほこんたけ通信」の連載記事として掲載される内容を本ブログにも投稿しています。お問合せは上早川地域振興会事務局(上早川地区公民館内)025-559-2002までどうぞ。
0 件のコメント:
コメントを投稿