2015年10月14日水曜日

上早川の歴史と伝説(その6)「不動山城 - 城主・孝長の最期- 」

上早川の歴史と伝説(その
不動山城 城主・孝長の最期
前号で紹介した二代目の不動山城主、山本寺定長(定景)の弟である孝長は謙信の近侍であったようで、永禄四(一五六一)年九月の川中島合戦では血気盛んな若武者ぶりを発揮したようです。また、関東・相模の北条氏政に謁見して謙信の口上を述べるような大役もこなしています。
謙信の後継者争いとして知られる天正六(一五七八)年の「御館の乱」においては、山本寺氏は兄弟が分かれて戦うことになります。兄の定長は上杉景虎(養子・北条氏政の子)側、弟の孝長は景勝(養子・謙信の妹の子)側に属したようです。勝敗に関わらず、山本寺家の継承が可能になり、戦国の世では類似の事例を多く確認できます。御館の乱は、景虎の鮫ケ尾城での自害によって、景勝側の勝利となり、孝長は不動山城主に任ぜられました。兄・定景の遺領を賜ることになり、山本寺家は安泰となったのです。
織田信長による越前、越中への進行が始まると、上杉勢も越中の守りに勢力を注ぎます。山本寺孝長をはじめとした十三人の武将が魚津城の守りに加わり、万全な体制をとりました。しかし、手薄となった春日山城を信濃方面から攻める動きもあり、越中への加勢が困難となったことから、前線の魚津城は、孝長らに託されることになりました。信長軍の勢いは凄まじく、天正十(一五八二)年六月三日、孝長をはじめ十三人は切腹、魚津城は落城となりました。この前日の二日、信長は本能寺で明智光秀に討たれ、その知らせは七日頃に越中まで伝えられたことから、もう数日持ちこたえていれば、形勢は逆転したことでしょう。何とも不運な不動山城主、山本寺孝長の最期でした。
記:音坂 木島 勉
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■前→上早川の歴史と伝説(その5)「不動山城 - 城主 - 」
※本記事、上早川の歴史と伝統」は上早川広報「ほこんたけ通信」の連載記事として掲載される内容を本ブログにも投稿しています。お問合せは上早川地域振興会事務局(上早川地区公民館内)025-559-2002までどうぞ。

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