上早川の歴史と伝説(その7)
移り変わる西浜・上早川の複雑な支配西浜(現・糸魚川地方)の支配も同様で、延宝三(一六七五)年に越前松平家の系譜である松平直堅の支配(一万石)となると落ち着き、幕末まで続きました。しかし、外様の前田家が領する加賀・越中に接する西浜は、前田家への警戒もあって、糸魚川藩領、高田藩領、幕府領、田沼領、伊勢神領、一の宮領が混在する複雑な支配体制が続きました。
上早川も、東越、宮平、中野、坪野、中林、西土塩、笹倉、新田は高田藩領、西越、北越、東土塩、猿倉、吹原、角間、北山、砂場、中川原、新田、土倉、大平は幕府領(天明七年から文政六年までは田沼領)と複雑でした。
実際の差配は、越村の伴(後に斉藤)氏が、大肝煎(大庄屋)として代々上早川を仕切っていたようです。この伴氏は戦国期に近江(現・滋賀県)から越後に下り、上早川に落ち着き、前回紹介した山本寺氏と姻戚関係を結び仕えました。山本寺氏亡き後は、上早川の開発によって勢力を拡大させたようで、戦国末から江戸、明治に至る差配は、糸魚川市に寄贈された一六二三点もの古文書類からもうかがえます。
木島 勉
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※本記事、上早川の歴史と伝統」は上早川広報「ほこんたけ通信」の連載記事として掲載される内容を本ブログにも投稿しています。お問合せは上早川地域振興会事務局(上早川地区公民館内)025-559-2002までどうぞ。
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