2016年1月13日水曜日

上早川の歴史と伝説(その9)「草の争い」

上早川の歴史と伝説(その9)
草の争い
前回は江戸時代前期における川東の猿倉・吹原・坪野・土塩と川西の砂場・北山・角間との山境の争いを紹介しましたが、このような争いは上早川だけではなく各地で頻発したようです。その背景には各集落の支配の複雑さ、人口の急激な増加、農林業をはじめとした諸産業の発展などがあったようです。もちろん、山境より田畑の境界の方がより深刻であったに違いありません。主食である米は年貢でもあり、米本位の当時は、米はまさにお金と等しく扱われていました。ですから、その生産量の増大は、最重要課題でもありました。
現在の稲作は様々な肥料や土壌改良剤によってその収穫量は飛躍的に高まりましたが、当時は草が唯一の肥料でした。田んぼの近くで青草を刈り、それを田にすき込んで肥しにしたわけです。そのため、この大事な草刈場をめぐる騒動も各地で起こっていたようです。
万治三(一六六〇)年には土塩村の前川原で土塩と宮平の百姓が争いを起し、大肝煎の関沢茂右衛門と斉藤仁左衛門が裁定に入っています。それによると、新たに田畑を開墾すると、再び草刈場でもめることから、これを禁じています。さらに、二十四年後の天和三(一六八三)には再び裁定がなされ、早いもの勝ちではなく、二人で一緒に刈り、それでも不足であれば村の共有地を刈らせるとしています。
 今では草を肥料として扱うようなことはなく、むしろその処理・草刈りに困っていますが、当時のような貴重な草の所有権の名残は、畔草の刈り方などに残っているようです。
木島 勉
◆次→上早川の歴史と伝説(その10)「火山灰台地の開発」 
■前→上早川の歴史と伝説(その8)「境界争い」
※本記事、上早川の歴史と伝統」は上早川広報「ほこんたけ通信」の連載記事として掲載される内容を本ブログにも投稿しています。お問合せは上早川地域振興会事務局(上早川地区公民館内)025-559-2002までどうぞ。

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