2016年7月19日火曜日

上早川の歴史と伝説(その15)「経田村?」 [ History and legend of KAMIHAYAKAWA No.15 ]

上早川の歴史と伝説(その15)
経田村?
経田(きょうでん)村をご存じでしょうか。室町時代から戦国期の諸文献に確認できる村名で、天正十五(一五八二)年の「経田永付帳」(伴家文書)では土倉・岩倉・吹原・猿倉・土塩・坪野・五十原・松木分・下村となっている。この松木分と下村は後に、中野・中林・宮平・越となることから、早川右岸の村々はかつて「経田村」と呼ばれていたようである。

宮平・剣神社
宮平・剣神社の永享三(一四三一)年銘の「剣三社前殿棟札」(市・有形文化財)には「矛岳座 京田剣三社権現」とあり、永正三(一五〇六)年の伴家文書には「京てん村平之丞」といった住人を確認でき、天正十四(一五八六)年の上杉氏黒印状には「教典村」、同十八(一五九〇)年の飯田長家・河隅忠清署請取状には「西浜之内きょうてん村」などと書かれている。
少々怪しいが、大同三(八〇八)年編纂とされる最古の医学書『大同類聚方』には「佐美豆薬。頸城郡早水郷京田村主 □□□少領 無位 大神臣等の家伝。元は大己貴神授 云々。 延暦□□年 領君 朝原親王御悩の時、宮符言上。 かつら・とりかぶと・まむし・わけらのね。四時水煎、日々与ふ。」とあり、「京田」なる地名が平安時代まで遡る可能性を示す。一方、「佐美豆(さみず)」、「早水(さみず)」とあるように、「早川(はやかわ)」は「早水(さみず)」と呼ばれたが、「水」を粗末に書くと「川」となることから「早川」になったとも読み取れよう。
木島 勉
※本記事、上早川の歴史と伝統」は上早川広報「ほこんたけ通信」の連載記事として掲載される内容を本ブログにも投稿しています。お問合せは上早川地域振興会事務局(上早川地区公民館内)025-559-2002までどうぞ。

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