上早川の歴史と伝説(その8)
境界争い
泰平の江戸時代になると、庶民の生活も落ち着き、農林業をはじめとした生業も安定、発展しました。前号で紹介したように幕府領と高田藩領とが混在する早川谷においても、現在の集落・大字はほぼ成立し、農林業を主体とした生産活動も大いに盛んになったようです。こうした安定と発展は、人口や戸数の増加をもたらし、より広い耕地が必要となり、木材や薪、炭などの需要も大いに増えたことと容易に想定できます。そうなると、各村の境界をめぐって様々な争いが勃発するようになり、『糸魚川市史3巻』にも「早川谷の山論」として境界裁定例が紹介されています。
承応二(一六五三)年に川東の猿倉・吹原・坪野・土塩が川西の吉尾平や余所平の山林を伐採したことに端を発し、これに川西の砂場・北山・角間が異議を唱え、双方が高田藩の奉行へ提訴したそうです。奉行は早川の大肝煎の小竹氏(田屋)と斉藤氏(越)に、熊野権現のお札(牛王宝印)の裏に案文を書き、名前と血判を押させ、それを焼いて境界の土に混ぜ、関係者にそれを飲ませて腹痛をおこした方が負け、とした裁定案を命じたそうです。関係者十二人が日光寺観音堂に籠って忠実に行った結果、だれも腹痛をおこさなかったことから、双方の主張の中間に境界が設けられたそうです。
全く不思議な裁定とも思えますが、西海の御前山でも同じような裁定が行われ(「七人待掛軸文書」・市指定文化財)ていることから、当時としては一般的であったようです。まだまだ中世の名残が感じられます。
木島 勉
◆次→上早川の歴史と伝説(その9)「草の争い」
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※本記事、上早川の歴史と伝統」は上早川広報「ほこんたけ通信」の連載記事として掲載される内容を本ブログにも投稿しています。お問合せは上早川地域振興会事務局(上早川地区公民館内)025-559-2002までどうぞ。
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