焼山噴火の火砕流
活火山焼山の成立は、火砕流最下層における炭化木の放射性炭素による年代測定によると、前回紹介しました。それでは音坂から上流域の厚い火砕流の堆積は、いつの噴火によって形成されたのでしょうか。フォッサマグナミュージアムに展示される早川火砕流堆積物の一部を剥ぎ取ったジオラマ(写真)を観察すると、堆積した砂礫の大きさなどの違いから少なくとも六層に区分できます。また、各層の間に腐植土の堆積を認めないことから、間髪入れずに少なくとも五回の火砕流が流れたことを示しています。火砕流堆積物より検出された炭化材の放射性炭素による年代測定では、八九〇年前、九五〇年前、一一〇〇年前を示し、平均すると九八〇年前となることから、平安時代末期の一〇〇〇年ほど前に、焼山の大噴火があったことは確かなようです。さらに、上早川小学校の敷地造成で検出された炭化材は、鎌倉時代末期の一二三五年前と測定されています。前者三点の炭化材と後者の層位関係は不明ながら、二五〇年ごとの大噴火の可能性を示していることになります。
平安時代末期以降、戦乱が頻発する不安定な社会が続きました。この頃は地球の寒冷化に加え、地震、津波、噴火を繰り返す活動期でもあったようです。不安定な気候は作物の不作を招き、作物だけでなく領地の争奪も各地で起きたのです。こうした社会の変動期にあって、火砕流で土地を奪われた私達のご先祖達は、どのように対処したのでしょうか。
木島 勉
■前→上早川の歴史と伝説(その17)「焼山噴火の年代」※本記事、上早川の歴史と伝統」は上早川広報「ほこんたけ通信」の連載記事として掲載される内容を本ブログにも投稿しています。お問合せは上早川地域振興会事務局(上早川地区公民館内)025-559-2002までどうぞ。
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