2015年8月18日火曜日

上早川の歴史と伝説(その4)「不動山城 - その構え - 」

上早川の歴史と伝説(その
不動山城 - その構え -
早川谷の中ほどに聳える不動山城は、中世戦国期の山城跡で、谷の全域をその勢力下に治めていました。この不動山城をしばらく探ってみます。
東海集落と越集落の間に聳える独立峰(標高四四七.五m)に築かれた不動山城は、山頂の本丸を中心に二の丸、三の丸と広い平坦面を造成し、井戸も伴います。四方に延びる尾根は幾重にも掘切りを入れて防御を強化し、典型的な山城の形態を残しています。本丸からは、早川谷はもちろん、遠く親不知の勝山城までを見渡せ、西海谷や根知谷の山城も遠望できる絶好地にあります。早川の入口付近が死角になりますが、立壁の尾根に築かれた金山城がこれを見事にカバーしています。
麓の要害集落には「御殿跡」、「ノロシ場」、「馬のり場」などの伝承地も残り、越集落付近は、地すべりによって当時の面影はありませんが、「耕文寺跡」(現在は西海・坂井)の伝承地もあります。また、城主の山本寺氏に仕え、江戸時代には早川谷の大肝煎であった伴家もその付近にあったそうで、正慶二年(一三三三)の板碑を所有しています。恐らく、越から東海集落の裏手(草山)一帯がこの城を支えた家臣団の居住や経済活動の場である「根小屋」があったのではないでしょうか。
記:木島 勉
◆次→上早川の歴史と伝説(その5)「不動山城 - 城主 - 」
■前→上早川の歴史と伝説(その3)「土塩(つちしお・つっちょ)の由来」
※本記事、上早川の歴史と伝統」は上早川広報「ほこんたけ通信」の連載記事として掲載される内容を本ブログにも投稿しています。お問合せは上早川地域振興会事務局(上早川地区公民館内)025-559-2002までどうぞ。

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