上早川の歴史を語るうえで宮平の剣神社は欠かせません。なかでも、市の有形文化財(書跡)に指定された神社に伝わる棟札は、室町時代におけるこの神社やその建立を担った氏子の様相を今に伝えています。
この棟札の表には「大領宮司左示門太夫古志公義盛 永享三年辛亥今上皇帝一百三代 少領宮人平左示門古志公長 奉造立矛嶽座京田剣三社権現前殿一天安全四海太平風雨順時
六月二日成就 将軍家義教公 大工しろむら」、裏には「京田村 山組男女百六十六人 里組男女二百九十九人」とあります。
京田村の皆々が天下泰平と安定した天候を願って社殿を新築し、当時の宮司は左衛門で、宮人は平左衛門、施工は大工しろむらであったことが解り、賛同者の人数もあることから、京田村の人口も推定できる貴重な歴史資料といえるでしょう。
永享三(一四三一)年は、室町幕府の将軍の足利氏とそれを支える有力者との間で揉め事が頻発したころで、都は荒廃が進んだと言われています。しかし、現在の集落がほぼ成立し、春耕から秋の収穫までの基本的な技術と作業が確立した頃でもあり、早川右岸に広がった京田村(現在の土塩・猿倉・吹原・坪野・中林・中野・宮平・五十原など)で、農作業に励み、豊作を神社に託した私たちの遠い祖先の願いが窺い知れるようです。(木島)
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