卯年の満水
早川も酷く、かつて砂場の林蔵文庫に収められた古記録によると、十九日の夕方五時頃から雨が激しくなり、夜八時になると風雨が増し、地震も発生、余震もあわせると十二回も揺れたらしい。また「…天をかける諸鳥は、つばさを風にて吹きさかれ地に落つ…」と激しさを伝えている。被害の状況も詳しく、各村で家屋が流失、田畑には土砂が流れ込み、河原には柳が数本残っただけ、岩倉村では土砂崩れで避難したところに水が押し寄せ男女十人が亡くなり、このうち六人は遺体も見つからなかったと記しています。いずれにしても、中川原台地に移った村も少なくなかったようです。
この後、宝暦元(一七五一)年五月二一日にはマグニチュード七前後とされる高田地震、安永二(一七七三)年には火砕流を伴った焼山の噴火と大災害が度重なりました。この苦難を乗り越えたパイオニアがまさに私達の祖先なのです。
木島 勉
■前→上早川の歴史と伝説(その18)「焼山噴火の火砕流」※本記事、上早川の歴史と伝統」は上早川広報「ほこんたけ通信」の連載記事として掲載される内容を本ブログにも投稿しています。お問合せは上早川地域振興会事務局(上早川地区公民館内)025-559-2002までどうぞ。
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